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没後100年 成瀬誠志とその周辺

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明治中期の岐阜県東濃地方東部の陶磁器業界は現在の多治見市を含む土岐郡、可児郡と中津川市を含む恵那郡、これら3つの郡をひとまとめにしていました。現在のように商業組合や工業組合などと分かれておらず、「三郡」と呼ばれる1つの大きな組合だったのです。本展覧会は現在の美濃焼の定義を再解釈し、明治時代に活躍した名工 成瀬誠志(なるせせいし)の没後100年を記念し、中津川市とともに多治見市でもその功績を振り返り、美濃焼の中での位置づけを改めて試みるものです。

そして、作品は中津川市苗木遠山史料館と当館の2館で展示するとともに、企画展のために作成するハンドブックは、中津川市の学芸担当に研究成果の執筆を依頼し、共同で作成します。

成瀬誠志は弘化2(1845)年、美濃国恵那郡茄子川村(現在の中津川市茄子川)に生まれました。名は和六といい、13歳の頃、地元の茄子川焼の篠原利兵衛の徒弟となります。明治4(1871)年に東京へ移り、陶画工となります。翌年には芝区の増上寺山内に窯を構え、薩摩焼風陶器の絵付けを本格的に始めました。当時、幕末から欧米で好まれたジャポニスム・日本趣味の流行を受けて、いわゆる「東京薩摩」と呼ばれた誠志の作品は主に横浜から海外へ輸出されました。明治10(1877)年に開催された第一回内国勧業博覧会での受賞を皮切りに、精密な絵付けは国内外の博覧会で入賞するなど高い評価を受けました。

明治19(1886)年に、より本格的な制作の場を求めて茄子川へ帰郷し、工房「陶博園」を開設します。特に帰郷後、日光東照宮をモデルに制作した「陽明門」は約3年の歳月をかけた大作でした。この作品は明治26(1893)年アメリカ・シカゴ万国博覧会に出品した際、輸送中の事故により破損しその一部の展示にも関わらず、多くの賛辞を得て受賞します。

本展では、東京で制作した「東京薩摩」を中心に、地元茄子川に帰郷して取り組んだ大作「陽明門」をあわせて展示します。アメリカの日本陶磁収集家E・モースから「薩摩焼風陶器の細密画の元祖」と紹介されるに至った誠志の世界を時代背景とともにご紹介します。

場所
多治見市美濃焼ミュージアム ギャラリーM1
期間
令和5年9月2日(土)~令和6年1月28日(日)